写真が映えないですが、15年以上前の東京ディズニーシーの写真です。雲がぞうさん🐘みたいで撮った記憶があります。
もうすぐ本土の終戦記念日ですが、ディズニーランドというと、祖母の戦争体験を思い出します。祖父母は戦争を体験した世代で、父方の祖父母は満州で出会いました。祖父は陸軍、祖母はアメリカ人が経営する病院で看護婦(以下昔の名称のまま)をしていました。もしかしたら、イギリス人だったかも知れませんが、とにかく白人が経営する病院で、白人の専属の庭師がいて庭がとてもよく管理されていたそうです。白黒写真でしか見たことがありませんが、確かに良く手の行き届いたガーデニング風景をバックに、20歳前後の祖母を含む健康そうな若い女性が3、4人、笑顔で写っていました。まさか戦時中とは思えないような平和な画でした。
父方の祖父母は一緒に暮らしていましたので、折々に満州の話を聞かされていました。祖父母の話をまとめると、満州は全盛期は都会で楽しいところだったそうです。戦後、満州に残り大変苦労された方の話が報道されることが多いですが(※時代によりそれぞれの経験は違うというのは理解しております🙇)、少なくとも、祖母がいたころはまだ秩序が保たれており、例えば写真館に行き、同僚同士、ハイカラなお洋服でおめかしして写真を撮ったりと、青春を楽しんでいたようです。看護婦長が凄く威張っていて仕事は嫌だったけど、綺麗な病院で良かったと話していました。
祖母はディズニーランドで、美しく手入れされたお庭を眺めながら食事をするのが好きでした。ディズニーランドにいながら、「木が丸く刈り込まれていて、満州の病院の中庭みたい♡」と感想を述べた人はきっと彼女だけでしょう。丸にはミッキーの耳も付いていたはずですが気にしないみたいでした(笑)息子=叔父が近郊に住んでいるので、祖母は私よりもディズニーランドに行った回数が多いはずです🐭アトラクションは最後までNGだったらしいですが💦
段々戦況が激しくなると、満州の病院にも負傷者が沢山運ばれてくるようになり、時には麻酔が足りず、看護婦数人で兵隊さんを押さえつけて緊急手術を行うなどしたそうです。そうこうしているうちに祖母は緊急命令で日本に帰ることになり、すぐ準備をして、仲の良かった同僚に挨拶もままならぬま帰国の途に就き、急に何もない田舎に戻った時は、寂しくてたまらなかったそうです。
満州でも、日本でも、ニッポンは勝つと誰もが信じて疑わないでいたのが、8月15日の玉音放送を聞いて、どういうこと?何かの間違いではないのか?と思ったそうです。そしてその後樺太も台湾もよその国に取られた、とよく話していました。
因みに、帰国してから祖母は、看護婦の仕事だけはやりたくないと強く決め、どんなに誘いを受けても断ったそうです。戦争だから、世のために働いたけど、今はもう嫌だの一点張りでした。文字に起こすのを警戒しながらですが、病院ほど病人が集まっている場所はない、とよく話していました。私が幼少期に高熱を出した時は、「今は家でゆっくり休んで、熱が下がって少し体力が戻ってから病院に連れて行った方が良い」と母にアドバイスしていたのを覚えています。
そう、満州で結婚の約束をしていた祖父母ですが、後の話がそれぞれ違います!!◎祖父は「結婚するっていったじゃない、といいながら祖母が自宅に来た」、◎祖母は「お客さんが来ているよ、といわれて玄関に行ったら祖父カナンドさんが立っていた」・・と双方が譲らず、未だに謎のままです🌀