戦時中、父方の祖父は陸軍として満州にいました。ちょうど20歳前後の若い遊びたい盛りの人がお国のためにとそれぞれの持ち場を守りながら過ごしていたのですね。
父方の祖父とは一緒に暮らしていたので、戦争の話は沢山聞いたことがあります。よく夕方晩酌をしながら戦争の話をし、時折「皆で殺し合った」と言いながら泣き出すこともありました。当時子供だったので、どうしてよいか分からず、「おじいちゃんが泣いている」と台所にいる母に伝えに行くと、いいからここにいなさい、なんて言われたりしました。
ある時満州にて、長い銃撃戦の後、同じ軍隊の1名と祖父だけがその場に残り、お腹が空いてまさに死にそうで途方に暮れていたことがあったそうです。食料は軍から供給される豚の塩漬けしかなく、日持ちするように塩が濃くしてあるので却って喉が渇いて辛くなるため、手を付けず持ったまま、隊長も他の隊員ももうおらず、残った2名でこれからどうしようかという時に、敵軍である、中国軍から見つかり銃を突き付けられ連行されてしまいました。
両手を上げ、降参しながら連れていかれたのは、敵の陣地内でした。その陣地内のテーブルには、戦時中とは思えないほどのごちそうが並んでおり、そしてその中から、柔らかいおこしを2人に渡してくれたそうです。今でもその食べ物が何なのか明確でないのですが、雷おこしの様なおこしを温め、柔らかくしたものだったそうです。お米で出来たふわふわの食べ物が、今でも忘れられないと話していました。
その後、もと居た場所に戻ろうとすると、中国軍の中の、恐らく偉い方だと思われる年配の男性から、もっと遠くに行け、というような、腕全体で手の甲を手前から遠くへ何度も振るジェスチャーをされ、もっと、もっとと、かなり見えなくなるまで示してくれたそうです。敵軍なのに、どうしてなのか未だに理由は分かっていません。(幻覚だったのか・・にしても話が具体的過ぎますよね)
通常、敵に連行されたら、その後無害で解放されることはまずないことでしょう。とにかく祖父は生きて帰ってきたのですから、お相手には心から感謝したいです。
軍隊とは人の集まりですが、実際に戦い始めるとばらけて単独行動になることもよくあったそうです。移動手段は馬で、寂しく不安に戦地を移動することもしばしば。道すがら、要所要所に各国の国旗が掲げられており、たった一人、馬に乗りながら、日本の国旗を見つけると、こんなに勇気づけられることはなかったと聞いています。
戦争を推奨するわけではないです。ない方が良いに決まっています。しかし、訓練や準備をした上で実際に戦いに出たとしたら、極限状態において戦い出す人がほとんどではないでしょうか。良い悪いと単純に言い切るのはそもそも無理な話だと考えます。自国の為に心と命を差し出した勇気ある方たちは、犠牲者だとばかり捉えられるのではなく、むしろそれ以上に称賛されるべきではないでしょうか。戦地に行っただけでも凄い事なのです。
8月15日終戦の日は、祖父はまだ満州にいました。当日何をしていたか、というと、夏の暑い中、軍の書類を全て燃やすよう指示され、隊員同士協力して必死で書類を火にくべていたそうです。何の書類なのかを見て確認する余裕もなかったと聞いています。
その後、しばらくして帰国しました。当時中国大陸からの日本の玄関口は長崎だったそうです。終戦直後の満州、そして長崎まで移動する汽車や船の中の状況は、それは酷く、酷すぎてとても女の子に話せる話ではない、としか、祖父からは聞かされたことがありません。沢山の焦げ付くような思いや記憶が少しでも鎮まる様に祈りを捧げたいです。